FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

日光の旅

6月13日(水)~6月14日(木)、日光へ旅行に行ってきました。

<1日目>6月13日(水)

楽しみにしていた「日光金谷ホテル」に宿泊です。
実は15年以上前に、確か?浦和駅前の“コルソ”で私の講演を行なったとき、当時の金谷ホテル社長が見に来ており、講演後に紹介されて知り会いになった。社長は「東洋整体術」のファンで、そのうちゆっくり話をする事になっていたが、そのままになっていた。
そんなこともあって社長にもしも会えたらと・・・それも楽しみの旅行だ!
本来は、六本木の本社ビルにいるだろうと思ったが・・・?

朝9時に家から車で出発、先ずはあの「日光猿軍団」のショーを目指しAM11時頃に到着した。
ショーは1日2回の公演で、1回目はAM10:30から、2回目はPM2:30からで、途中休憩せずに行けば1回目に間に合ったのに残念。

nikko_02.jpg

時間つぶしに何処へ行こうかと考え「中禅寺湖」へ行くことにした。山道をくねくねと走りもうじき中禅寺湖に着こうかというときに、霧がだんだん濃くなりとうとう霧に包まれてしまった。せっかく来たのに、到着したときには中禅寺湖はまったく見えない!

悔しい思いをしながら引き返す途中、みやげ屋に寄って試食して「たまり漬け」を買い、「日光猿軍団」へ向かったがどういうわけか迷ってしまい山道に入ってしまったため、2回目講演の15分前の到着だった。
入場すると大きな猿のオリの中に猿山があり、親猿と一緒にただ1匹だけ子猿がいた。親猿以外の大人の猿が子猿の世話をやきたくてそろそろと近づいていく・・・・・。自由奔放な子猿は、あっちに行ったりこっちに行ったりで親猿は常に子猿を見守っていた。
いやー可愛いね~!  いつまで見ていても飽きないね~!

nikko_01.jpg

・・・あっという間に開演の時間になって、可愛い、けな気な猿たちの演目を最後まで楽しませてもらった。


今夜宿泊の「日光金谷ホテル」に向かう。

ホテルは“日光道”沿いから小高い山の上にあるのだが、上り口の日光道沿いにある明治時代様式のみやげ物屋の建物を左に見て上って行くと、目的地の「日光金谷ホテル」があった。
ホテルに車が到着するとすぐさまホテルマンが出迎えに来た。
このホテルの光景は、当時の時代にタイムスリップしたかのように歴史を感じさせる。

nikko_04.jpg

チェックインの際一応社長の事を聞いてみた。社長なら今いますよとのこと。
驚いて聞き直したが・・・結局、今の社長は女性の社長で5代目だそうで、私の知っている社長は3代目だということが分かった。
残念ながら亡くなっていた!・・・複雑な気持ちだ・・・。

nikko_06.jpg

このホテルは、現存する日本最古の西洋式ホテルで明治初期の1873年に開業したそうだ。それ以来130年余りの歴史を誇り、現在でも当時の建築様式をほぼそのまま残している。また、平成17年(2005年)には国の有形文化財に登録されている。

「日光金谷ホテル」は当時、自社で日光道に路面電車を走らせていたという。
それに、当時は西洋人客がとても多かった。

箱根宮ノ下にある「富士屋ホテル」は「日光金谷ホテル」よりもやや遅く開業したが、実は、「日光金谷ホテル」を建設した大工が日光杉を持っていき「富士屋ホテル」が完成されたそうだ。それ故、「富士屋ホテル」と「日光金谷ホテル」は大変よく似た建築物になっており、丈夫な建物のようだ。
ちなみに「日光金谷ホテル」は硬い岩盤の上に建設されているため、少々の地震ではびくともしないと自負してた。

nikko_03.jpg

夕食はフランス料理、窓から見た光景は緑に囲まれ、レストラン内は西洋の古き良き時代を醸し出し何とも落ち着いた空間だ。
もちろんフランス料理は美味しく頂いたが、特にパンが美味しかった。
何故かというと、このホテルはパンにかなり自信をもっているようだ!

<2日目>6月14日(木)


今朝は、このホテルから車で5分ほどの場所に「日光東照宮」がある。
ここは初代将軍徳川家康が祀られており、平成11年12月に「世界文化遺産」に登録されている。

nikko_07.jpg

私がここに来るのは今回で5度目だが、社殿群はいつ見ても見事の一言・・・、石鳥居・五重塔・表門・陽明門・神厩舎(シンキュウシャ)/三猿(サンザル)・神輿舎(シンヨシャ)・御水舎(オミズヤ)・廻廊・御本社(ゴホンシャ)・奥宮(オクミヤ)・唐門・三神庫(サンジンコ)祈祷殿(キトウデン)・眠り猫・・・・・・等々。
さすが「世界文化遺産」だ!
社殿群の見事な細工、重量感、色使いの絢爛さ、豪華さ、ため息が出るばかりだ。

nikko_08.jpg

nikko_09.jpg

日光東照宮HPの「由緒」には、次のように載っている。
『日光東照宮は、元和(ゲンナ)3年(1617年)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社です。家康公は、天文(テンブン)11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)でご誕生になり、幼少より苦労を重ね戦国乱世を平定され、幕藩体制を確立されました。そして、世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間にわたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされた。
家康公は、元和(ゲンナ)2年4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬(シンソウ)されました。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されお祀りされました。正遷宮(ショウセングウ/神社で本殿の改築・修繕が完了し、神体を仮殿から本殿に移すこと)は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後、正保(ショウホ)2年(1645年)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。
尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永13年(1636年)に造替されたものです。』・・・・・とある。

nikko_10.jpg

徳川家康=家康は、天文11年12月26日(1542年)に愛知県岡崎市(三河)に生まれる。父は、岡崎を拠点とした三河地方に根を広げていた松平広忠。

①家康6歳の頃、今川義元に人質にされる。その後すぐに、家康は織田信長に奪われ6歳~8歳まで2年間人質になり、また8歳~18歳の10年間を今川義元の人質となり、松平三河武士団は今川に組み込まれた。

②家康の12年間は忍従の生活であった。

③父は部下に刺殺され、その前に祖父も部下に刺殺されていた。

④信長が今川を破って、家康は解放され徳川氏を名乗ることができたのもつかの間、信長の命令によって妻と長男を断罪(打ち首)しなければならなかった。

⑤家康は若くして人生の修羅場を見ることになった。

⑥世間は甘いものではなく「織田が尽き、豊臣が来ねし天下待ち、座りしままに喰うは徳川」…と誹謗中傷される。

⑦家康の合戦は、48戦中47勝1敗で、悲願の日本統一を成し遂げた。

⑧家康語録
⑴「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」
⑵「不自由を常と思えば不足なし」 
⑶「心に欲起こらば、困窮したる時を思い出すべし」 
⑷「堪忍は無事長久の元へ、怒りは敵と思え」 
⑸「勝つばかりを知りて、負くるを知らざれば、害その身に至る」 
⑹「己を責めて人を責めるな」 
⑺「及ばざるは過ぎたるよりも勝れり」 
⑻「人はただ、身の程を知れ草の葉の、露の重きは落つるものかな」

⑨秀吉が尋ねた家康との会話
【秀吉】…わしには、天下の名物茶碗や南蛮渡来の数々の“宝物”がある。
【家康】…“宝物”の中の“宝物”は、命を惜しまぬ500基ばかりの侍たちである。

⑩世界には今だ類例のない“徳川幕府政権”は265年間(慶長8年・1603年~慶応3年・1867年)も続いた。

感激も覚めやらぬまま東照宮をあとにした。

日光道の街道を低速で左右の町並みをゆっくり見学、そこで気がついたのは豆乳の“湯葉料理”の店と“羊かん屋”が多いことだ。

“湯葉料理”が美味しそうに感じ、昼食を日光道沿いにある日光金谷ホテルの“みやげ物屋”で「湯葉そば」を食べた。湯葉もそばもボリュームがあって汁が美味しかった。
金谷ホテルと同じ年代に建てた明治時代様式の、古く風情ある建築物だ!


最後の見学先は「日光江戸村」である。

nikko_11.jpg

最初に体験したのは「忍者怪怪亭」の屋敷を1階と2階の部屋をめぐるのだが、丘陵の高低を利用した屋敷となっており、屋敷に入った途端、目の錯覚から思うように体が進まず動かない、不思議な体験をした。
この屋敷は遊び心いっぱいのお薦めの場所だ!

次に「忍者からす屋敷」に入った。
忍者一人が敵の忍者数名と闘うのだが、太刀さばきの見事さ、運動神経の俊敏さに驚かされた。とにかく真面目に手を抜かず演じていることに感銘した。

次に「文化劇場・若松屋」で“花魁(おいらん)芸者”と“大石内蔵助”が座敷で酒を飲んでのやり取りを行う設定、・・・大石内蔵助は来場しているお客さんから選んで芝居を行うのだが、大石内蔵助が素人のため大いに笑わされた。楽しい時間だった。
しかし、花魁(おいらん)たちの芸や芝居はきちっとした立派なものであった。

nikko_12.jpg

しばらく村内を見て回っていると先ほどの花魁(おいらん)一行の道中「花魁道中」が行われていた。来場者のほとんどの客がこの道中を見学、外国人の客も多く見られた。
花魁の身のこなし、付添いの男衆のキレのある身のこなし、どれをとってもきちっとした見応えのある道中であった。
鳥肌の立つような感動を覚えた。これは必見である!

nikko_14.jpg

閉場間近となったが、最後に「水芸座」に足を運んだ。先客は2組で結局は私たちを含め3組だけになった。
客が少ないにも関わらず、水芸を真面目に真剣にやっていた。
私は演じている側が元気でやりやすいように、拍手をしたり声をかけたりうなずいたりして気遣ったので、いや~疲れた。

いよいよ閉場となり村内の“関所(江戸村出入り口)”に来ると、武士姿の男たちが勢ぞろいし、きちっとした装いと言葉で入場者を見送ってくれた。身の引き締まる思いであった。

ディズニーランドのスタッフがお客を受け入れる姿勢を思い出した。この「日光江戸村」も、お客に対する受け入れ態勢や真剣に手を抜かない姿勢に感服した!!
だからこそ、これからも「日光江戸村」は安泰だろう。

nikko_15.jpg
スポンサーサイト

奈良県・世界遺産の旅

奈良タイトル画像

2012年6月3日~4日、天気にも恵まれ、念願の「奈良・世界遺産の旅」に行ってきました。
奈良へ行くのはこれで3度目です。職業柄もあり特に薬師寺へは何としても行きたいと思っていたところでしたが、金峯山寺・飛鳥寺も楽しみにしていました。

<1日目>6月3日(日)

● 東京駅(06:16)から京都駅(08: 29)に到着し、バスに乗って、先ずは「世界遺産・東大寺」の大仏殿と東大寺ミュージアムを見学しました。

東大寺といえば奈良の大仏で知られている華厳宗の大本山で、聖武天皇(ショウムテンノウ)の発願によって創建されました。大仏は正式には毘盧遮那仏(ビルシャナブツ)といい、銅で出来ており像高は14.85mあり、壮大で穏やか姿に感動をお覚えました。

唐の僧の鑑真(ガンジン)により戒壇院を設立し、三戒壇の一つとして奈良時代と平安時代を通じて「興福寺」と並ぶ大寺院となって栄えましたが、中世(鎌倉・室町の時代)以降に衰退したといいいます。

東大寺01

東大寺02


*華厳宗=中国唐代の僧である法蔵(ホウゾウ)が開いた大乗仏教の宗派をいう。
*聖武天皇=紀元724~749年在位の第45代天皇。
*鑑真=中国の唐の僧で、奈良時代に5回の渡航に失敗し、失明の憂き目にも関わらず753年に日本の学問僧の要請に応じ来日した。日本の「律(法律、掟)」の開祖として、聖武天皇以下に“受戒”を行ない、のちに大和上(ダイワジョウ)の称号を贈られ、律宗の総本山である「唐招提寺」の元を築いた。
*戒壇院=僧侶になるための受戒の儀式を行う“戒壇”が設けてある建物をいう。



● “なら和み館”というところで昼食をとったあと、医療に関係する「世界遺産・薬師寺」に行きました。
薬師寺は法相宗(ホッソウシュウ)の大本山として、天武天皇が皇后の病気平癒のために発願し、紀元680年に藤原京に建立されたが、平城京遷都によって718年に現在の奈良市西ノ京に移転してきました。
薬師寺には“薬師三尊像”が安置され、中央に「薬師如来」、向かって右に「日光菩薩」、左に「月光菩薩」が安置されています。
  薬師如来は別名を“医王如来”ともいい、精神と身体の病気を救ってくださる仏様といわれます。
  また、薬師寺の敷地内には法相宗の始祖である玄奘三蔵(ゲンジョウサンジョウ)の“玄奘塔”も建立されています。ここには、玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利(シンジンシャリ)として奉安し、須弥壇(シュミダン)には玄奘三蔵訳経像をお祀りしているとのことです。

薬師寺01

薬師寺02


*法相宗=中国・唐の慈恩大師を祖とする“大乗仏教の宗派”で、玄奘が唯識説を学び、日本の道昭が入唐して玄奘に学び日本に伝えた。
唯識説=万有は識(純粋な精神作用)に他ならぬとする説をいう。
*藤原京=飛鳥時代の持統・文武・元明天皇の都で、現在の奈良県橿原市(カシハラシ)を中心とした地域。
*平城京=元明天皇が710年に藤原京が遷都してきた現在の東大寺の場所をいう。
*日光菩薩=薬師如来の脇侍で薬師三尊といわれ、日光が世界を照らすがごとく世間を照らすとされ薬師如来の説教を御守している。
*月光菩薩=同じく薬師三尊とされ、薬師如来の脇侍で、月の光を象徴し薬師如来の説教を御守するといわれる。
*玄奘三蔵=三蔵法師ともいわれ法相宗の始祖で、629年に中国長安を出発し、西域(中央アジア・西アジア・エジプトなど)を経てインドに入り、サンスクリットの仏典を研究して多くの経典を持ち帰った。「西遊記」の題材でも知られている僧。
*舎利=遺骨または遺体のことをいう。
*須弥壇=仏堂内に仏像を安置する台のこと。




● 次に、日本で最初に“世界文化遺産”として登録された、世界最古の木造建造物の「法隆寺」へ行きました。
薬師寺と続き境内が広く、歩きなれない靴だったので小指が痛くて疲れました!
では、法隆寺について私なりに説明したいと思います。

  もともとは“法相宗”でしたが、第二次世界大戦後は「聖徳宗総本山」となりました。
場所は奈良県の斑鳩町(イカルガチョウ)にあり、南都(奈良のことをいう)七大寺の一つで、推古15年(607年)に聖徳太子が開創(初めてその寺を開くこと)したと伝えられ、7世紀初めに聖徳太子が建立(寺院や堂塔などを建てること)したといわれています。
  夢殿や東院伽藍は、奈良時代になってから738年に律師(僧綱の第三位の高層)を任じられた「行信(ギョウシン)」が造営しました。
  金堂・釈迦三尊、百済(クダラ)観音、救世(グゼ)観音、玉虫厨子(タマムシノズシ)など飛鳥・奈良時代のすぐれた美術品や、1949年には舎利容器、金銅合子、海獣葡萄鏡(カイジュウブドウキョウ)、玉類、金板、香木などが発見されています。
  聖徳太子信仰は様々な信仰と融合し、特に密教との融合は大いに発展したといわれます。
法隆寺01

法隆寺02


*聖徳太子=父・用明天皇と母・穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇后の皇子(オウジ)で、上宮太子(ウエノミヤノミコ)、法大王(ノリノオオキミ)、上宮聖王などともいう。
推古天皇の摂政(君子に代わって政務を執り行う)となり、冠位十二階・十七条憲法を制定し、小野妹子(オノノイモコ)を中国・隋に派遣し国交を開いた。
学問に精通し、仏教に帰依して法隆寺や四天王寺など多くの寺院を建立し、仏教を広めた。
また、豪族勢力を抑え“中央集権的官僚国家建設”の準備を整えた。

*密教=大日如来(密教の教主で宇宙の実相を体現する根本仏をいう)自らの悟りを楽しみながら説く、奥深い絶対の真理の教えといわれている。
特に祈祷を重要とし、呪文や儀式を備えている。日本の密教では、空海の“真言宗”を 東密といい、最澄の“天台宗”を台密(タイミツ)といっている。





● 昔の時代を偲び感慨に浸り、今夜の宿泊地である大阪の「ホテル・サンルート梅田」で一夜を迎えることになりました。
夕飯は外食となっており梅田駅近辺で済ますことになりましたが、大阪はほとんど来る機会がなく、生の関西弁に触れる機会もなく、何となく他国に来たような新鮮な気分になりました。
 たこ焼きが美味かった!


<2日目>6月4日(月)

● 本日は、いよいよ特別御開帳を迎えた吉野山にある「世界文化遺産・金峯山寺(キンプセンジ)」をお参りします。
金峯山は修験道(シュゲンジャ)の中心的な道場として、宗教者が宗派を超えて入山修行する場となっている“修験本宗の総本山”といわれています。

  吉野山蔵王から山上ヶ岳の山上蔵王堂までの間を百日かけて休むことなく歩き、“金峯山百日回峯行”として礼拝するといいます。また、千日かけて行われる“金峯山千日回峯行”もあり、現在まで2名が成満しているとのことでした。

  秘仏である「金剛蔵王権現像」が並ぶ三体をじっくりと拝見させて頂きました。
  向って、中尊の釈迦如来像を権現(仮の姿をとって現われる)し過去世を表わし、右尊の千手観音像は権現し現在世を表わし、左尊の弥勒菩薩像は権現し未来世を表わしているといいます。
  過去・現在・未来の三世にわたり民衆の救済誓願をもって出現したものです。
  その像の勇壮な姿は、髪を逆立て憤怒の形相で悪魔を退け、民衆を救済する姿を表わしているといいます。
金峯山寺01

金峯山寺02


*釈迦如来=仏教の開祖。
*千手観音=限りない慈悲を表わし、千の慈悲の眼と千の慈悲の手をもって、生ある者を救済。
*弥勒菩薩=釈迦が入滅後、56億7000万年ののち仏陀(ブッダ/釈迦の尊号)となってこの世に出現するといわれる菩薩。





● 昼食は“柿の葉寿司(柿の葉っぱで包んだ押し寿司?)”を心行くまで堪能しました。
美味かった!



● いよいよ最後の寺院となった「飛鳥寺」を参拝します。この寺は、日本最古の飛鳥大仏が安置されており、新西国第九番霊場・聖徳太子遺跡第十一番霊場となっています。
飛鳥寺01


パンフの「寺宝」に・・・・・。
『本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)銅象・重要文化財-
推古天皇13年(605年)、天皇が聖徳太子蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、同17年(609年)鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像である。高さは約3mで当時15t、黄金30kgを用いて造られた。平安・鎌倉時代の大火災で全身罹災、後補を受ける。・・・・・・・。』との説明が載っていました。

*蘇我馬子(ソガノウマコ)=古代の中央豪族で、蘇我稲目(ソガノイナメ)が父。敏達(ビダツ)・用明(ヨウメイ)・崇峻 (スシュン)・推古(スイコ)天皇の四朝の大臣を務めた。対立する排仏派の物部守屋(モノノベノモリヤ)を滅ぼし、崇峻天皇を殺害している。法隆寺を建立して仏教興隆に尽力し、「天皇記」や「国記」の編纂にも従事した。
*物部守屋(モノノベノモリヤ)=古代の豪族で、敏達・用明天皇の大連(オオムラジ/大和朝廷における最高執政官)の職に就いたが仏教を容認せず蘇我馬子と対立し、用明天皇の死後に穴穂部(アナホベ)皇子の即位を画策したが蘇我馬子に殺害された。




朝が早かったので少し疲れましたが、楽しかった!良い運動になりました!
その後、観光バスに乗り京都駅から新幹線で東京駅へと帰路に着きました。

いや~、何といっても、充実した旅行でした!
奈良公園
カテゴリ
最新記事
プロフィール

鳥澤 悟道

Author:鳥澤 悟道
株式会社リヴァイヴ
代表取締役 鳥澤 哲男

●東洋カイロプラクティック
 専門学院 学院長
●東洋カイロプラクティック
 直営療術センター 総院長
●東洋カイロプラクティック師
 協会 会長
●予防医学推進 悟道会 会長
●健康アナリスト
●上海中医薬大学気功研究所
 修了
●臨床催眠療法師

最新コメント
お買い物リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。