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『執念の行動あらば 目標地に達す』

悟道塾20

日本は、自由主義と民主主義の先進国といわれる国である。先進国は30ヶ国以上あるのだが、その中でも主要先進国として、日本・イギリス・フランス・イタリア・ドイツ・アメリカ・オーストラリアなどがあげられる。
 先進国は「議会制民主主義(間接民主制)」のことをいい、技術が進み経済や政治が安定している国とされている。

 日本の「自由主義」では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」・・・また、住居、職業選択の自由、経済活動の自由などが規定されている。
 「民主主義」では、日本国憲法の前文に「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」・・・とある。

 私たちは社会主義国と違い、法に触れない限り、住まい、仕事、商売など自由にできる権利を与えられている。国政よりも『国民が主役』であり、一般的にいう社会主義とは反対の立場にある。
 近年、政治の腐敗が著しい。首相の顔触れが小泉純一郎以来、安倍晋三(366日間)、福田康夫(365日間)、麻生太郎(358日間)、鳩山由紀夫(266日間)、菅直人(452日間)、野田佳彦(482日間)、再び安倍晋三となってこの6年間で首相が7人も交代し、2年以上の政権維持がなされていない。政治の混迷はいつまで続くのだろう。
 ちなみに、有権者の支持率は自民党が36%、民主党7%、無党派層35%(11月調査)だという。いかに国民からの政治離れが進んでいるかが一目瞭然である。ちょっとした政治のゆるみが、あっという間に政権交代につながる。
 6年の間に、リーマンショック(アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズが2008年9月15日に破綻したことで、世界的金融危機の大きな引き金となった事件)や1000年に一度といわれる東日本大震災(2011年3月11日発生)と震災による福島第一原子力発電所の事故、・・・失われた20年といわれる長い低迷の時代にさらされている。
 遅きに失する感はあるが、2013年11月に入って元首相小泉純一郎が「原発ゼロ」を訴え始めている。にもかかわらず政府自民党は、トルコに原子力発電を売り込んでいる。いったい何を考えているのか気が知れないとう意見が大半を占めているようだ。野党のほとんどが原発反対、ましてや国民の半数以上は原発反対と言っている。小泉純一郎氏に言わせれば、首相の決断で原発ゼロは可能であると断言している。
 奇しくも、現役官僚がペンネーム若杉冽(れつ)という名で11月下旬に「原発ホワイトアウト」という題名の小説を出版しており、・・・ある筋から、いったい誰なのかと身元割り出しに躍起になっているようだ(真実に近いものではないかとマスコミが取り上げている)。
 また、11月27日には「特定秘密保護法案」なるものが衆議院を通過しているが、何が秘密なのかを調べるチェック機関としての「民間第三者委員会」の設置について激しく論議されていたが、12月6日深夜に強行採決のようなかたちで参議院本会議で可決成立した。・・・原発反対の関係者は、原発の秘密にも関連してくるのではないかと大いに不安を抱いているようだ。・・・将来に、大きな禍根を残すことのないよう切に祈りたい!!

 先にも触れたが、国民のための政府であるのにも関わらず、・・・安部首相は原発ゼロについても舵を切れずにいる。政府閣僚の力不足か?官僚に問題があるのか?財界関係者との力関係なのか?・・・つまるところ「票の獲得」を考えてのことか?・・・アベノミクスを含め、今後の情勢を見極めて行きたい!・・・
 TPP(環太平洋経済連携協定)なども含め問題は山積しているが、ともあれ良い政治が成されることを信じ、景気回復も大いに期待したい!!

 さて、視点を一般社会にも目を向けてみた。
 結婚して間もない若夫婦からの奥様アンケートによると、自分の夫は出世しなくても良いと答えたのが94%という。その理由として、力関係が夫に優位になると自分が小さくなっているのが嫌だから。子供は二人で育てたいから。子供が病気のときの病院や学校の授業参観日に一緒に行ってほしいから・・・などなど、家庭を中心にした生活に必要性を感じるようだ。・・・まあ、諸事情はあるとは思うが?・・・。

 今年の地球の気象状況も異常だが、人間も何かおかしい。・・・病院看護師が臓器を持って写真を撮ったり、大型冷蔵庫の中に横たわった若者、パトカーの屋根に乗った若者、飲食店内で同会社の客全員が裸に、線路内に入って写真を撮りソーシャルネットワーク上にアップロード・・・、このような行為をする者を「バカッター」と言っている。
 また、ホテルのレストランや飲食店などの多数にメニュー偽装が発覚、・・・驚いたことに3組に1組が離婚ともいう・・・。
 どうなっているのか・・・!?

 『人は何のために生きるのか? 何を目標や目的として生きるのか?』

 福沢諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日/天保5年~明治34年)がこんな「心訓」を残している。
 一、世の中で一番楽しく立派なことは 一生涯を貫く仕事を持つことである
 一、世の中で一番みじめなことは 教養のないことである
 一、世の中で一番さびしいことは 仕事のないことである
 一、世の中で一番みにくいことは 他人の生活をうらやむことである
 一、世の中で一番貴いことは 人の為に奉仕して恩にきせないことである
 一、世の中で一番美しいことは 総てのものに愛情と親切心をもつことである
 一、世の中で一番悲しいことは ウソをつくことである


 「目標」の意味を辞書で引いてみると、目当て・目印・狙い。と載っている。
 「目的」 の意味を辞書で引いてみると、行為の目的に対するハッキリした自覚。目指すところ。目当て。と出ていた。同じような意味のようだが、微妙に違う感じがする。目標は、道しるべ的なもので、目的は、目指す的がはっきりしている・・・といったところだろうか。目標と目的を合わせたら「標的」ということになる。つまり、標的を射たらゴールインとなる。
 有名なP.F.ドラッカーの『三人のレンガ積み職人』の話しがある。ある旅人が一人目の職人に、あなたは今何をしているのですか、と聞いたら?・・・言われた通りにレンガを積んでいるのさ、と応えた。二人目は、家族を食べさせるためにレンガを積んでいるのさ、と応え、三人目は、後世に残る立派な教会を造っているのさ、と応えた。
 三人三様で、一人目は目的意識がなく、二人目はしっかりとした目的のために働き、三人目は目的と未来を想像し働いている。同じ働きをしていても「心の持ち方」で、一人目は流れ作業のように働いている。二人目は意思をもって働いている。三人目は意思と夢をもって働いている・・・となる。
 
 私は思う・・・。自分の能力に合わせ、高すぎる目標を持たない方がよい。漸次的に目標を掲げ「標的」を射るのが賢明だ。目標が高すぎると、これは無理だと途中であきらめたり挫折してしまう可能性がある。・・・難しい問題だが、大切なのは目標を楽しみながら思いを継続できたらということだ!

 もう一つ興味ある話をしたい。・・・志村史夫氏(工学博士・静岡理工科大学教授・ノースカロライナ州立大学併任教授・応用物理学会フェロー・日本文藝家協会会員)がダライ・ラマ法王との対話で、こんなことを言っている【講談社/こころを学ぶより】。
 物理学の対象は自然界・物理・エネルギーで、「こころ」とは別物として扱っていたため今までは二元論の科学であったが、ミクロの世界を研究する量子物理学の発展によって、今まで「客観的実在」でなければ科学の対象にならなかったが、ミクロの世界を観察するのは人間の「こころ」がするものだから、「こころ」も物理の対象になるという。
 つまり、形而上学としての形を超越した感覚器官では捉えられないもの(霊魂なども含む)から、自然界・物理・エネルギーと「こころ」は無関係ではなく、数珠つなぎになっているからとのことで二元論から「一元論」へと思考されるようになってきた。
 ・・・すべてはつながっているというのだ!!

 先の『三人のレンガ積み職人』で言えば、三人三様の「こころ」が思いとなって表われている!
 物理的とか精神的とか、かたちはどうあれ、究極は『平安なこころ』がゴールではないだろうか!?

 最後にもう一人、アメリカ・大リーガーのイチロー選手が、小学6年生のときに書いた『夢』という作文で示唆を与えてくれた。【原文のまま】
 「ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習にはじしんがあります。ぼくは3歳の時から練習を始めています。3歳〜7歳までは半年位やっていましたが、3年生の時から今までは、365日中、360日は、はげしい練習をやっています。だから一週間中、友達と遊べる時間は、5時間〜6時間の間です。そんなに、練習をやっているんだから、必ずプロ野球の選手になれると思います。そして、中学、高校でも活躍して高校を卒業してからプロ野球に入団するつもりです。そしてその球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズが夢です。ドラフト入団でけいやく金は、一億円が目標です。ぼくがじしんがあるのは、投手と打げきです。去年の夏ぼくたちは、全国大会へいきました。そしてほとんどの投手を見てきましたが、自分が大会ナンバー1投手とかくしんできるほどです。打げきでは、県大会、4試合のうちに、ホームランを3本打ちました。そして、全体を通した打りつは、5割8分3りんでした。このように、自分でもなっとくのいくせいせきでした。そして、ぼくたちは、一年間まけ知らずで野球ができました。だからこの、ちょうしで、これからもがんばります。そして、ぼくが一流の選手になって試合にでれるようになったら、お世話になった人に、招待券をくばって、おうえんしてもらうのも夢の1つです。とにかく一番大きな夢はプロ野球選手になることです」

 2010年6月号の月刊誌「致知(ちち)」の随想でも、イチローのバッティング投手だった奥村氏がイチロー選手から聞いた言葉で・・・、「僕は高校生活の3年間、1日にたった10分ですが、寝る前に必ず素振りをしました。その10分の素振りを1年365日、3年間続けました。これが誰よりもやった練習です」・・・と述べている。

 大きな目標を達成するためには、先ず、高すぎない目標を掲げ、楽しみながら継続して行けたら、必ず標的を射ることが出来る!!

 とりあえずの目標を自分のペースで継続し、一つ一つじっくりと確実に目標に近づけ、達成したら、また同じこころを以って、次へと続くレベルアップした目標に向かって継続して行ったとき・・・、

『 執念の行動あらば 目標地に達す 』

 以って・・・『平安なこころ』を享受できたなら!!
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健康対談[第21弾] 対談者:自然食料理研究家 薬膳コーディネーター 加藤 ゐくこ 先生

自然食にこだわって35年
自然食と薬膳のエキスパート


マクロビオティック、自然食、薬膳を中心に、体に良くて美味しいメニューの提案と教室の開講をされている加藤ゐくこ先生。
アナウンサーから料理研究家へ転身されたエピソードを中心にお話しいただきました。

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加藤 ゐくこ先生 プロフィール----------------------------------------
東京都生まれ。恵泉女学園短期大学 英文科卒業。民放のアナウンサーを経て20代で結婚、2児の育児中、30代で体の不調から玄米菜食、マクロビオティック、薬膳に出会う。森下フードコンサルタント、森下自然医食料理講師、桜沢流普茶料理師範、日中薬膳交流協会講師、総合漢方研究会医学堂薬膳部講師、国際中医薬膳指導師(浙江中医薬大学、薬物研究所認定)講師などの資格を得る。
 現在、クッキングスタジオ☆Family62☆、ベジフル中医薬膳塾を主宰。リマクッキングスクール、らでぃっしゅぼーや@青葉台スタジオ、読売文化センターにて薬膳講師を務める。また雑誌「はいから」などに薬膳レシピを連載中。レストランメニュー、商品開発コンサルタント等多方面で活躍中。

自身の体調不良を機に薬膳の道へ
「『どうしてそんなに元気になったの』と聞かれるようになるくらいの変わりようでした。それで、食事療法に興味を持たれた方のために、料理教室をスタートすることにしたんです」

鳥澤会長 本日は、よろしくお願いいたします。
加藤先生 よろしくお願いします。
鳥澤会長 薬膳の料理教室を開かれている加藤先生ですが、どういったきっかけでこの道に進まれたんでしょう。
加藤先生 大学卒業後は、地方局で三年間ほどアナウンサーを勤めていました。
鳥澤会長 アナウンサーをされていたんですね。声が綺麗な方という印象が強かったんですが、理由がわかりました。
加藤先生 その後、日本放送のラジオのアナウンサーを経て、結婚後は家庭に入りました。その頃から油物や甘いものなど、いわゆるグルメな生活を送っていたんです。その結果、太ってしまって。
鳥澤会長 失礼ですが、その頃の体重はどれくらいだったんでしょうか。
加藤先生 153㎝で、70㎏くらいありました。親族もびっくりされるくらいの変わりようで。
鳥澤会長 それは驚かれたでしょうね。体調にも影響しましたか。
加藤先生 はい。その頃から慢性的な疲労感がぬけなくなって。一年の半分くらいは風邪をひいていました。私自身もそうですし、子供2人のうち1人はアトピーと喘息、もう1人は蓄膿で。悩んでいたところ、「森下自然食療法」を知ったんです。
鳥澤会長 そういった経緯で。「森下自然食療法」と出会われて、どれくらい経つんでしょうか。
加藤先生 35年です。食事療法を知ってからすぐに、白砂糖は全て黒糖に、白米は玄米に変えました。主人は白米のままが良いということだったので、子供2人と私の3人で、食事療法を実践することにしたんです。そうしたら、3ヶ月で全員が良くなって。
鳥澤会長 それはすごいですね。具体的には、どんな療法を行われたんですか。
加藤先生 まずは玄米食。そして、調味料も自然のものに変えました。自然塩、黒糖等ですね。それから、穀物・野菜中心の食事に変えたり、出来るだけ動物性の食品を摂らないようにしました。玄米にはハトムギ・アワ・キビ・黒豆・小豆を入れて雑穀ご飯にして、1日2回食べることにして。森下ドクターが言うには、このご飯だけで他のおかずはいらないくらい栄養が摂れるそうなんです。
鳥澤会長 それまでの食事とはかなり違うものになったんですね。子供さん達は大丈夫でしたか。
加藤先生 予備知識がないからか、美味しい美味しいと喜んで食べていました。身体は100〜120日で変わると言われていたんですが、本当にその通り、3ヶ月程で子供達のアトピー・喘息・蓄膿がすっかり良くなって。私も10㎏くらい減量して、体調も良くなりました。その様子を見たご近所の方から、「どうしてそんなに元気になったの」と聞かれるようになるくらいの変わりようでした。それで、食事療法に興味を持たれた方のために、料理教室をスタートすることにしたんです。
鳥澤会長 私も自分の身体の不調を基に療術を研究してきましたので、すごく共感するところがあります。
加藤先生 そうですね。私も、実際に辛い経験をしたからこそ学べたんだと思います。まずは玄米菜食、次にマクロビオティックという完全菜食、その次に薬膳を教えるようになりました。薬膳教室を始めてから、旬の食べ物や季節の移り変わりに関わる陰陽五行論を知って、こんなに実生活に活かせる理論があることに感動して。
鳥澤会長 まさに医食同源。究極の理論にたどり着いたわけですね。機会があれば、うちの学院でも料理教室を開いていただきたいと思うのですが、そういった臨時の教室では、主にどういったお話をされていますか。
加藤先生 色々ありますが、特に、食材の力についてお話ししたいと思っています。季節外れの食べ物を食べている方が多いのがすごく残念で。冬に夏野菜のトマトやナスを食べて、あちこちが痛くなるのは、当たり前の事なんです。身体を冷やしますから。そういった食材の基本的な知識を学んで頂くことで、高価なものを使わなくても健康になれるということをお話していきたいと思っています。
鳥澤会長 資本主義の世の中で過ごしていると、お金に頼って健康になろうとしがちですが、そうしなくても健康は手に入れることが出来るということですね。
加藤先生 食を変えると聞くと、難くお考えになる方が多いんですが、基本的な事から改善していけば、そんなに大変な事ではないんです。期間的にも、少しの期間だけちょっと頑張って実践して頂くことで、みるみるうちに身体が変わっていく。それを一度経験すると、また自然にやりたくなるんです。飽食の時代ですが、食事面でのセルフケアを通して生活を改善していく方法を、広く伝えていきたいと思っています。
鳥澤会長 当院の療術と先生の薬膳をコラボレーションさせて、新たな療法を築くことが出来たら良いなと思います。お互いの良い所を吸収して、世に発信していけたら良いですね。本日はありがとうございました。
加藤先生 私もぜひ学ばせて頂きたいと思っています。ありがとうございました。

健康対談[第20弾] 対談者:首都大学東京 教授 易 勤 先生

日中の架橋
外科医から教授へ 国を越えた飽くなき挑戦

都内に7つのキャンパスを有する首都大学東京の教授である易 勤 先生。
祖国中国から来日したきっかけや、ご自分でも予想されていなかったという教員人生の始まり等、現在に至るまでのエピソードと今後の展望についてお聞かせいただきました。

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易 勤 先生 プロフィール----------------------------------------
中国 湖北中医薬大学医学部卒業
北京市北郊病院・北京市工人療養院(現西山病院)にて外科医として勤務
1995年 来日
金沢大学医学系研究科(がん局所制御学 旧第2外科学)研究生
2001年 金沢大学 大学院 医学系研究科 博士課程修了
金沢大学(神経分布路形態形成学講座,旧第2解剖学)助手
東京医科大学(人体構造学講座)講師
金沢大学(医薬保健研究域・医学系 機能解剖学,旧第2解剖学)准教授を経て2013年4月より首都大学東京にて教授として勤務

来日したきっかけ
「日本でもっと勉強してみてはどうかというお話があって。その時はまだ、本当に自分が日本に行くとは思ってもいませんでした」

鳥澤会長 本日は、よろしくお願いいたします。
易先生 こちらこそ、よろしくお願いします。
鳥澤会長 易先生が当学院で講師をされていた頃から、もう6年ほど経つんですね。早いものです。先生は、中国は湖北省の武漢市のご出身でしたよね。三国志で有名な。
易先生 はい。生まれも育ちも、武漢です。大学は、武漢市内の湖北中医薬大学という、東洋医学の大学を卒業しました。
鳥澤会長 中医学を学ばれていた先生が、日本に来られたきっかけをお聞かせ願えますか。
易先生 来日したのは、1995年、18年前ですね。それ以前に8年間、消化器外科を専門とした臨床経験を積んでいました。その頃は、日本へ留学することは全く考えていませんでした。
鳥澤会長 約20年程前となると、今のように留学が盛んな時代ではなかったですしね。
易先生 当時は、まだ今日のように経済は発展していませんでした。しかし、国民全体が、仕事以外の生き甲斐となる何かを見出したいと思っている、熱意ある時代でした。
鳥澤会長 なるほど。これからの発展が望める、良き時代だったんですね。
易先生 はい。そんな中、ある患者様との出会いがあったんです。その方は、私の友人のお兄さんで、中国人ですが、金沢大学へ留学、博士号を取得し、東京の精密機械メーカーで働いていた方でした。私と出会った時は、日本の医療費は高いので、中国で手術を受けるために帰省していました。
鳥澤会長 当時、すでにそういう方もいらしたんですね。
易先生 私も驚きました。そして、その方のご家族とお話した際に、易先生もまだ若いんだから、日本に行ってもっと勉強してみてはどうかというお話があって。日本の知り合いを紹介すると仰っていただいたんですが、その時はまだ、世間話程度にしか考えておらず、本当に自分が日本に行くとは思ってもいませんでした。
鳥澤会長 まだ実感が湧いていなかったんですね。
易先生 その後、その方が日本へ戻られて半年程が過ぎた頃に、再びご連絡を頂きました。日本へ行く準備は出来ているか、日本語を勉強しておきなさい、と。
鳥澤会長 先方は本気だったわけですね。
易先生 そうだったんです。その方の手術の後に、奥様の手術も担当したので、それで余計に勧めてくださったようで。出会いから1年間で計画が具体的に進み、1年後に、日本へ留学しました。


大学院卒業を経て 教員の道へ
「大学院3年の終わり頃、ある教授から、金沢大学の教員にならないかというお誘いを受けて。これまた自分が教壇に立つなんて思ってもいなかった事ですから、驚きました」

鳥澤会長 ご自分の予想以上に、とんとん拍子で留学計画が進んだわけですね。素晴らしい出会いだ。それで、結局、どちらの大学へ留学されたんですか。
易先生 まず、金沢大学へ留学しました。入学後すぐに、1年半、研究生として消化器外科の臨床チームに参加しました。もちろん、医師免許に反さない範囲での参加でしたが。
鳥澤会長 急に臨床チームに参加して、戸惑いはなかったですか。
易先生 8年間の臨床経験がありましたから、そこまでは。それに、金沢の環境がすごく自分に合っていたので、良かったです。その後、4年間、大学院にて内臓神経を中心とした研究に取組みました。
鳥澤会長 やはり、医学の道はなかなか長いですね。
易先生 そうですね。そして、大学院3年の終わり頃、ある教授から、金沢大学の教員にならないかというお誘いを受けて。これまた自分が教壇に立つなんて思ってもいなかった事ですから、驚きましたが、承諾しました。その後、学会にて知り合った方のご紹介で、東京医科大学の解剖学の研究助手に着任しました。
鳥澤会長 なるほど。当学院で講師をやってくださっていたのは、その頃でしたか。
易先生 そうですね。東京に戻ってすぐですから、ちょうどその頃です。東京医科歯科大学の藤谷先生(当学院非常勤講師)からこちらの学院を紹介していただいて。
鳥澤会長 あの頃は東洋医学の講義をしていただいていたんですよね。いやはや、懐かしい。その頃の東京の印象はどうでしたか。
易先生 金沢の環境に慣れていましたから、東京は北京と同じように都会過ぎて…正直、最初は馴染みにくかったです。ただ、今振返ってみると、あの3年間は、その前の10年間で得たものを上回る経験となりました。環境が変われば、人もシステムも全く違う。この事は私にとって大きな変化であり、良い変化でもありました。人脈もどんどん広がりました。
鳥澤会長 紆余曲折があり、東京へ移ってきたのも、ひとつの縁だったといえますね。
易先生 はい。そしてまた環境の変化が…。金沢大学(医学部)から、今度は准教授として働かないか、という打診がありまして。
鳥澤会長 先生、引っ張りだこですね! それで、どうなされたんですか。
易先生 大好きだった金沢の環境を思い出したのと、キャリアアップが出来るということで、また金沢へ移る事を決めました。
鳥澤会長 金沢大学を経て、現在の職場、首都大学東京に至ると。
易先生 はい。金沢大学では准教授として5年勤め、首都大学東京では教授として半年が経過しました。
鳥澤会長 また一期間おいての東京での勤務はいかがですか。
易先生 5年前とは私自身の考え方が変わりました。その前の3年間の滞在期間で、東京への抵抗が治まったという理由もあると思いますが、東京独自の刺激や活発さが好きになってきたんです。と同時に、やはり東京での教授としての生活は、すごく忙しいですが。
鳥澤会長 それまでのお仕事とは内容も違っていますか。
易先生 もちろん以前と同様の仕事もありますが、それに加えて、もっと幅の広い仕事が増えました。
大学内の会議に参加したり、様々な委員会の担当を兼任したり。まだ着任して半年ですから、慣れるまで、しばらく忙しい毎日が続きそうです。
鳥澤会長 なるほど。忙しい毎日の中で、今後の展望についてはどうお考えでしょうか。
易先生 本大学の大学教育に力を入れ、ハイレベルの医療人を育てるため、しばらく頑張りたいと思います。さらに、将来、自分の仕事の関連領域において、日中間の研究・教育の交流の促進に貢献したいですね。


健康法
「昼寝をすることが、私にとってとても大切な健康法です。迷走神経を落ち着けて、20〜30分間、熟睡することを習慣としています」

鳥澤会長 忙しい毎日をアクティブに過ごされている先生ですが、何か健康法はありますでしょうか。
易先生 医療従事者ですので、食事にはこだわっています。朝昼夜、三食きちんと食べる事と、夕食の分量に気をつけています。
鳥澤会長 栄養に関してもこだわりはありますか。
易先生 カロリーの高い食事の場合は、控えめに摂取する事を心掛けています。また、間食はしないようにしています。
鳥澤会長 栄養バランスに気をつけているんですね。体力づくり等もされていますか。
易先生  今はあまり時間がなくて…。時間がある時は川辺で子供と遊んだり、節酒して、太らないようには気をつけていますが。大学時代にバスケットボールと、色々なアルバイトをしていましたから、基礎的な身体づくりは出来ていると思います。また、昼寝が私にとってはとても大切な健康法です。迷走神経を落ち着けて、20〜30分間、熟睡することを習慣としています。
鳥澤会長 そのおかげで、タフに毎日を乗り切れるわけですね。私も見習って頑張らないと!今日は、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。
易先生 こちらこそ、ありがとうございました。

健康対談[第19弾] 対談者:マルキユー株式会社 代表取締役社長 宮澤 政信 氏

魚に感謝し かけがえのない自然を大切に

埼玉県桶川を中心に、全国で釣りエサ・釣り具の製造、販売をされている「マルキユー株式会社」代表取締役社長である宮澤政信氏。
新事業としての駆け出し時代の秘話、環境問題への取り組みなど、貴重なお話を盛りだくさんでお届けします。

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宮澤 政信 氏プロフィール----------------------------------------
1940年生まれ
明治大学付属明治中学校 明治大学付属明治高等学校 明治大学法学部卒業
高校時代は野球部の4番キャプテンとして活躍。1958年の夏には、王貞治氏(元ダイエーホークス監督)率いる強豪 早実を自らのバットで打ち破りチームを甲子園へと導いた。明治大学でも野球部主将として活躍。
卒業後の1963年には大和証券株式会社に入社。その年の都市対抗では東京都代表となる。翌年退社後、小口油肥株式会社(現マルキユー株式会社)に入社。
1978年代表取締役常務、1986年代表取締役専務、2000年代表取締役社長
を歴任し、現在に至る。

■マルキユー株式会社
お魚さんありがとう。マルキユー株式会社は、魚に感謝し、かけがえのない自然を大切にします。
地球の環境保全を積極的に推進することが人類共通の最重要経営課題の一つとの認識に立ち、明るく豊かな社会の発展に貢献します。それがマルキユーの企業理念です。

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野球少年から 新事業の立ち上げへ
「振り返ってみると、釣りについての知識が無かったからこそ、様々な意見を取り入れることが出来て、ここまでこれたのかなとも思います」

鳥澤会長 本日は、よろしくお願いいたします。
宮澤社長 こちらこそ、よろしくお願いします。
鳥澤会長 (当日頂いた資料を拝見して)宮沢社長、若い頃は、野球に打ち込まれていたんですね。
宮澤社長 はい。王(貞治)君と同期でね。彼は当時からすごかった。私も、中学からずっと、野球一本でした。そんな私が今は釣りえさの会社をやっていますから、運命はわからないもんだなあと思います。
鳥澤会長 王さんと! そうだったんですか。野球少年から会社社長になるまでのエピソードをお聞かせ願えますか。
宮澤社長 私の父が、元々、養鶏養魚の肥料を作る「マルニ小口製肥合資会社」という会社をやってまして。その肥料は、お蚕さんのサナギを主体としてやっていました。私がまだ小さい頃ですから、戦後の時代ですね。それから、昭和30年代後半頃になると、日本社会もだいぶ落ち着いてきて、大手企業に負けず会社を存続させるには、何か業種展開をしなければいけないという岐路に直面していました。
鳥澤会長 なるほど。そういう流れで。
宮澤社長 その時に、大宮にあったある釣り道具屋のおじさんから、「お宅には、魚がいちばん好きなサナギがあるじゃないか」というアドバイスを頂いて。サナギは、淡水の魚にも海の魚にもよく好まれるエサのひとつなんです。
鳥澤会長 私も釣りが趣味ですが、それは知らなかった!参考になります。
宮澤社長 それまでは、養鶏用のサナギは他社に発注して仕入れていたんですが、釣りに直接使えるようなものを作ってみようと考え、昭和42年に、釣りえさの専門部門を立ち上げたんです。
鳥澤会長 従来の製肥会社も続けながらですか。
宮澤社長 製肥の方は、お得意様に迷惑をかけないようにということで、父が担当し、徐々に縮小していくかたちを採りました。釣りえさの新事業は、若い者でやれという指示で。
鳥澤会長 新事業の立ち上げには宮澤社長も参加されたんですか。
宮澤社長 はい。しかし、私はまだ学校を出たての、野球しか知らない少年でしたからね。当時は十数人でやっていた小さな会社でしたが、その中の大番頭だった中村さんという社員が補佐役になっていただいて、なんとかスタートさせました。
鳥澤会長 当時は、釣りや魚に対する知識はお持ちだったんですか。
宮澤社長 それが、2人ともそこまで詳しくはなくて。ほとんど釣りもやったことがなかったくらいですから。
鳥澤会長 そうでしたか!今となっては、信じられないようなエピソードですね。
宮澤社長 そんな調子でしたから、サナギはあるが、右も左もわからない。ということで、また釣り道具屋さんのところへ相談に行って。我々の拠点である埼玉県は海無し県ですから、ヘラブナ釣りが盛んで。その釣り道具屋さんが、埼玉県のヘラブナ釣り研究会の事務局になっていたんです。そして、その会長が非常によく面倒を見てくれまして。
鳥澤会長 それは良い出会いでしたね。
宮澤社長 それから、その方の言われるままに一生懸命やりまして。一応製品は出来上がったわけです。そうしたら、次は売り方がわからない。
鳥澤会長 やはり、釣り道具店に卸されていたんですか。
宮澤社長 そうです。先述のヘラブナ釣り研究会の会長さんの知り合いを頼りにして、東京の大手釣り道具店へ営業に行きました。それから、北は仙台から南は大阪まで、9店の特約店を設けまして。その特約店を介して、全国の釣り道具店へ卸すようになりました。
鳥澤会長 その頃、競合他社は多かったんですか。
宮澤社長 うちはどちらかというと後発でしたから、特に、ヘラブナ釣り発祥の地でもある関西に多かったです。ですから、ヘラブナ釣り研究会の会長さんは、関東にも良い釣りえさ店を、という気持ちも抱いていたようです。
鳥澤会長 関東で始めるにはちょうど良いタイミングだったわけですね。
宮澤社長 本当に、会長さんのご意見あってのスタートでした。今では、釣り好きの人ばかりが働いてくれています。研究室は、水産学部出身の8名の社員で構成していますが、彼らの知識にはいつも驚かされています。
鳥澤会長 実は、釣り好きの私の従兄弟に、「釣りエサと言ったらどのメーカーだ」と尋ねた事があるんですが、「そりゃあマルキユーだろう」と即答されまして。そういった専門家の知識が、良いエサ作りにつながっているんですね。
宮澤社長 ありがとうございます。そういうご意見は嬉しいですね。振り返ってみると、釣りについての知識が無かったからこそ、様々な意見を取り入れることが出来て、ここまでこれたのかなとも思います。
鳥澤会長 作る事と、販売・経営はまた違いますしね。
宮澤社長 その通り。どんなに良いエサを作っても、使ってもらえなければ意味がないですから。また、釣り業界というのは家族経営が多い。その中で、うちは会社という形で、昭和40年代から業績を残してこれた事は、誇りに思っています。
鳥澤会長 確かにそうですね。立ち上げからの業績はどのくらいだったんでしょうか。
宮澤社長 昭和52年、始めて10年目で、10億の売上を達成しました。最初は、新聞広告を見てとか、知り合いの紹介でしか来客がなかったんですが。
鳥澤会長 ものすごい飛躍ですね。そうなると、人手が足りなくなってきますね。
宮澤社長 昭和51年に、今後の経営を考慮して、新入社員の募集をしたんです。その時はまだ応接室がなかったので、臨時で貸しスペースを借りて…。30人程集まってくれた中から、3名を採用しました。3ヶ月で辞めちゃいましたけど(笑)
鳥澤会長 人事の事は、なかなか最初からうまくはいかないですよね。
宮澤社長 全くです。当時は、私も採用や教育に慣れていませんでしたから。それから毎年、2・3名ずつぽつぽつと社員を増やしまして。現在取締役を務めている社員は、昭和52年の第一期生で。前社長や中村さん、私は勘と度胸で経営するタイプでしたが、その頃から、農学部や水産学部を卒業した社員が増え始め、会社全体の専門性が高まってきました。そうして、家内産業から脱皮し、会社として動き出したんです。
鳥澤会長 会社として、危機を迎えたことはありましたか。
宮澤社長 昭和52年に、火災を起こしまして。当時は大宮の、現在でいう新都心のところに工場を構えていましたが、そこで。
鳥澤会長 火災の原因は何だったんですか。
宮澤社長 蚕の糸ですね。糸の発酵で、どうしても自然火災が起きやすいんです。その火災で倉庫が丸ごと焼けてしまって。一期生が入ったばかりの時期でしたから、彼らはこの先どうなるんだろう、と不安を覚えたようです。
鳥澤会長 それでもなんとか持ち直して、今につながっているんですね。
宮澤社長 他にも色々ありましたが、この業界も発展期でしたからね、なんとか。しかし、2011年の東日本大震災…あの時は、本当に今後どうなる事かと思いましたが、今こうして稼働できている事だけでも、有り難い事だと思っています。

時代に合わせ 人を大切にする 柔軟な経営
「会社にいらっしゃる方は、全てお得意様だと思え」

宮澤社長 昭和52年に、特約店を2社増やしまして、全部で11社になりました。その時に、ある社長さんから、これから釣りエサで売上を伸ばそうと思っても、もう無理だろう、という意見を頂きました。
鳥澤会長 飽和状態を迎えていたんですね。
宮澤社長 その当時は、淡水の魚のエサだけを作っていて、海の方は作っていなかったんです。しかし、昭和56年に大阪に事業所を設けた事をきっかけに、海釣り用のエサにも着手し始めて。西の方は海釣りが盛んでしたから。
鳥澤会長 今でも、関西の海釣りのやり方が関東に流れてきていますよね。
宮澤社長 そうですね。海釣りの関係の方達からアドバイスを頂きながら開発を続けた結果、更に売上が伸び、昭和63年には売上30億円を達成しました。
鳥澤会長 10年目の時に比べ、3倍にもなったんですね。
宮澤社長 そして、平成に時代が変わった頃から、ブラックバス釣りが流行し始めました。ルアーの時代が到来したんですね。早速うちもルアーを作り始めて、平成8年には売上ピークの70億を記録しました。しかし、その頃を境に、この業界にとって様々な問題が生じまして。
鳥澤会長 どんな問題でしょうか。
宮澤社長 まずは、ブラックバス放流や釣り具による環境汚染、鯉ヘルペスの問題。そして、海の方では、テロ対策として、家族釣りに恰好な釣り場が立ち入り禁止になってしまったんです。そんな事で、それから10年程は不景気も相まって、国内向けには、なんとか踏ん張っている状態でした。
鳥澤会長 国外の取引もされていらっしゃるんですか。
宮澤社長 はい。中国・韓国・台湾を中心に、20年ほど釣りエサを輸出しています。平成15年には、中国の天津にも生産工場を立ち上げました。
鳥澤会長 最近は中国との問題が色々騒がれていますが、その辺りはいかがでしょうか。
宮澤社長 時々は国交問題などに左右されることはありますが、海外でゼロからスタートして、その伸びを期待できるのが楽しいですね。釣りは海外共通ですから。
鳥澤会長 それだけ日本の技術が認められているということですね。
宮澤社長 中国と韓国では、加工エサではうちの製品がトップシェアを占めております。中国にも釣り道具の大型店舗が増えてきているんですが、そこに行ってみたら、釣りエサコーナーにうちのエサがたくさん並んでいて。有り難い事だなあと思います。それに並んで、模倣品もたくさんありましたが(笑)
鳥澤会長 やはりありましたか(笑)模倣されるほど、良い製品だということですね。
宮澤社長 あと海外展開としては、イギリスのウェールズに現地法人を作りまして。私の息子を派遣していますが、なかなか大変ですよ。私たちの製品は、産業分類では食品に入るんですが、税関のチェックの時なんか、「何だこれは?」なんて言われて。それを一つ一つ突破していかなければならないんです。
鳥澤会長 先陣を切るということは、苦労を伴いますね。向こうではどんな釣りが盛んなんでしょう。
宮澤社長 鯉釣りが盛んです。色々苦労もありますが、イギリスも、これからが楽しみですね。
鳥澤会長 平成8年には70億の売上を達成され、現在はどんな状況ですか。
宮澤社長 現在は、当時にくらべるとだいぶ減りましたが、55億円程です。
鳥澤会長 いやいや、減ったと言っても業界トップですから、素晴らしい業績です。うちも、創業当初に比べると、競合他社が増えて増えて…。なんとか稼働できているような状況です。
宮澤社長 やっぱり、製品や技術も大切ですが、一番大切なのは人ですよね。
鳥澤会長 そうそう、今日、本当に感動した事があったんですが、御社の駐車場にいらした社員の方から挨拶をしていただいて、こちらまでご案内して頂いたんです。
宮沢社長 「会社にいらっしゃる方は全てお得意様だと思え」というのが、中村さんの教えのひとつで。
鳥澤会長 そうだったんですか、いや、本当に素晴らしい。当社でも取り入れていきたい教訓です。
宮沢社長 お褒め頂いて、こちらも嬉しいです。明日の朝礼で報告しておきます。教育というのは、繰り返しですよね。ある日の朝礼が終わった後に、社員の一人に「今日の朝礼どうだった」と尋ねたら、彼は答えられなかったんです。その時、こちらが言った事を全て聞いてくれると思ったら大間違いだなと実感しました。だから、本当に聞いてもらいたい事は、何回も、くどいくらいに言わないといけない(笑)

環境にやさしい製品づくり
「釣りというのは、環境が大切であり、その環境を壊してしまっては元も子もないですから」

鳥澤会長 現在力を入れて取り扱っている製品としては、どんなものがありますか。
宮澤社長 先ほど、釣り具による環境問題についてお話しましたが、従来のプラスチックではなく、生分解性の材質を用いた釣り具の開発に、特に力を入れています。釣りエサの品質表示欄に、主原材料や栄養成分といった項目を設けています。釣りというのは、環境が大切であり、その環境を壊してしまっては元も子もないですから。
鳥澤会長 人間の身体にも影響してきますからね。我々も、普段そのような考え方で患者様に健康食品やサプリメントを勧めています。御社サイトで拝見した「レジャー文化としての釣りの繁栄が、人間関係のストレス・精神衛生のケアが大きな問題となっていることと無縁ではないでしょう」という社長のお言葉に、一人の釣りファンとして、大きく頷きました。また、御社では、「クリーン作戦」という活動を行っているとか。
宮澤社長 日本釣振興会と日本釣用品工業会が共同で制定、実施した「釣り環境ビジョン」というものがあって。「環境・美化マーク」のシール、または印刷のあるリール・竿では1商品ごと20円、それ以外の商品では1商品ごとに2円が、一律に賦課徴収されるというものです。
鳥澤会長 そんなプロジェクトがあるんですね。
宮澤社長 始まったばかりの事業です。この事業で集まった資金で、釣り場の清掃や放流といった活動を行うという。我々は日本釣用品工業会の常任理事をやっていますから、率先して行っています。環境保護はもちろん、安全な釣り場づくりにも力を入れています。
鳥澤会長 横浜の本牧・大黒・磯子なんかは整った施設になっていますね。ああいった施設が全国に増えると、釣り人達にとっては嬉しいですよね。
宮澤社長 そうですね。もちろん、それには釣り人のマナーも大切です。アメリカでは、州政府が管理する遊漁券があり、規則も厳しい。こういった点では、日本はまだまだ遅れをとっているんです。元々、アジア圏の民族は、どちらかというと自然は無料で使えるといった感覚を持っていますから、欧米諸国とは感覚が違うんですね。
鳥澤会長 自然ほど貴重なものはないのに、不思議ですね。

健康法
「毎日の早寝早起きと運動。1日に100回の事をやるより、1日1回の事を100日続ける事が重要です」
鳥澤会長 若い頃は野球に打ち込んでいたとお聞きしましたが、現在何か健康についてこだわっている事はありますか。
宮澤社長  早寝早起き、そして出来るだけ身体を使う事ですね。25年前に、イカリ消毒の黒澤眞次会長(当時専務)の講演を聞いた事があって。朝3時に起きて資格の勉強をされていて、生涯100の資格を取る事を目標としていると。世の中にはすごい人がいるもんだと感動しました。それから、朝4時には起床するようにしています。
鳥澤会長 就寝はだいたい何時くらいですか。
宮澤社長 だいたい9時から10時くらいですね。昨日は8時半でした。
鳥澤会長 朝からのスケジュールはどのように過ごされていますか。
宮澤社長 まず4時に起きて、それから30分ほど散歩をします。その後、腕立て伏せや腹筋などの運動、ゴルフスイングをします。今は膝を痛めて休止していますが、それまでは、自宅から大宮駅まで約2kmの距離を徒歩で通っていました。
鳥澤会長 健康的な毎日ですね!会社には何時頃に到着されるんですか。
宮澤社長 6時20分頃ですね。私が着く頃には、だいたい既に2・3人は到着しています。
鳥澤会長 皆さん朝型ですね!
宮澤社長 朝型の会社にしようと決めたもんですから。早寝早起きも運動も、毎日繰り返す事が大切だと思っています。1日に100回の事をやるより、1日1回で良いから100日続ける事が重要です。
鳥澤会長 継続する事が大切だという事ですね。普段から、釣りもされるんですか。
宮澤社長 会社で、釣り大会を週に1回ほどのペースで開催していて、私もご挨拶がてら出かけて、そのまま参加しています。一緒に釣るという事が、参加者の皆さんとの一番のコミュニケーションになりますからね。
鳥澤会長 それは良い事ですね。
宮澤社長 おかげ様で、昭和47年の正月に風邪を引いて寝込んで以来、今まで寝込むほど体調を崩したことは、一度もありません。
鳥澤会長 まさに継続は力なり、ですね。もしも、今後、体調が思わしくない事がありましたら、我々がケアさせて頂きます。
宮澤社長 ありがとうございます。その時はよろしくお願いします(笑)
鳥澤会長 本日は、お忙しい中ありがとうございました。
宮澤社長 ありがとうございました。






『人は艱難辛苦(かんなんしんく)を超え進化して行く』

色紙 『人は艱難辛苦を超え進化して行く』


 人の人生は様々である。
 一人として同じ人生を歩むことはない。
 
 学問、芸術、スポーツ競技などあらゆるものの中で、他の人に出来る事が自分には出来なかったり、他の人に出来ない事が自分には簡単に出来たりする。
 このような事は一体どうして起こるのだろう・・・?
 私は思う!人は知識、精神、肉体といった個性を持って・・・、生まれながらにしての運命を背負って存在している。その上、更に、教育や生活環境が関係してくると考える。

 この日本に筆舌に尽くし難い、前代未聞の冷酷で残虐な目を覆う事件が起こった。兵庫県尼崎市で起きた「連続暴行殺人」の主犯である角田美代子被告(64才/留置場内で自殺)の事件だ。
 「週刊文春」の取材によると角田美代子の壮絶な生い立ちは次のとおりであったという。
●父親は凄腕の「手配師(労働者から賃金の4割程度をピンハネしていた)」だった。全国から素性のよく分からない体力自慢の荒くれ者を集め、自宅に住まわせ、普段から睨みを利かせ圧倒的な圧力で抑え、いざとなったら恫喝や腕力をもって恐怖心を与え、アメとムチで支配していた。
●父親は当時「赤線(売春を目的とする特殊飲食店の密集する地域)」といわれた店に入り浸っていたという。
●角田被告の母や叔父も好き勝手な生活をし、誰も働いているところを見たことがないという。
●父親のお蔭で、角田被告はお金に困ったことがなく裕福な生活を送っていた。高校も学費の高い大阪の私立高校へ通っていた。角田被告は幼い頃から父親や母親の姿、叔父の行いを見て育っていった。
●中学の担任が語るには「少年鑑別所」の常連だったという。
●女子高を1年で中退し「スナック経営」をしていた。
●16歳の少女に売春を強要していた。
●10代と20代で2度の離婚をしている。
●ヤクザな夫をも虐待していたという。
●20代の頃には、恐喝をしてお金を巻き上げるようになっていた。
 幼い頃から父親の姿を見て「人心支配の洗脳方法」を自然に身に付けていったようだ。角田被告は外出時には素性不明の若者を従え、まるで女親分のように5~6人を引き連れ地元の商店街を闊歩していた。
 挙句の果てに・・・、他のいくつもの家族を崩壊させて行きながら、20代女性の暴行死や尼崎の民家から3人の遺体(ドラム缶死体遺棄を含む)など、角田被告の生い立ちが一連の数々の「連続暴行殺人」へと繋がっていった。

 次に、ロシア人の女子プロ・テニスプレイヤーのマリア・シャラポアについて調べてみた。
 マリア・シャラポアはグランドスラム(国際テニス連盟が定める4大国際大会/全豪オープン・全仏オープン・イギリスのウィンブルドン選手権・全米オープン)の優勝を2012年全仏オープンで生涯グランドスラムを達成した。
 身長は188cmで体重は59㎏、左利きだったが矯正の末バックハンド・ストロークの両手打ちが出来、強烈なサーブとストローク(ボールを打つこと)を武器にした試合を展開した。
WTAツアー選手権(賞金総額490万ドルの大会/レートによるが日本円で約4800万円前後)においては、シングルスで29勝(優勝)、ダブルスで3勝(優勝)を挙げている。
 ロシアの妖精と呼ばれたマリア・シャラポアは1987年4月19日ロシアで生まれている。彼女の生い立ちに欠かせないのは、父親との関係が大きく影響している。父親の名は「ユーリ・シャラポワ」、両親は旧ソビエト連邦の「ベラルーシ・ゴメリ」のチェルノブイリ原発に近い場所の出身である。
 不幸にも1986年にチェルノブイリ原発事故が起こり、その被災を避けるためやむなく家族はロシアの西シベリアに移住した。原発事故の影響で家庭は極貧生活を余儀なくされ、父親に思うような仕事はなかったが、苦労しながら一生懸命働いていた。
 ・・・父の趣味はテニスだった。・・・シャラポア4歳の時、父は遊びのつもりでテニスボールを打たせた。驚くようなプレーで、父のボールを見事に打ち返してきた。・・・その時、父はシャラポアのテニスの才能と可能性を見出し、・・・それをきっかけにシャラポアはテニスを楽しむようになっていった。
 シャラポアが6歳の時、父ユーリがたまたまテレビで「マルチナ・ナブラチロワ(テニス界で歴史的な記録を樹立)」が、ある場所にテニスの技術指導に来ることを知った。父は待ち焦がれるようにして、その練習場へシャラポアを連れて行きナブラチロワに会わせることが出来た。
 ・・・練習の合間を見て、ナブラチロワにシャラポアのプレーを見て欲しいと懇願し、プレーを見てもらうことが出来た。・・・帰ってきそのコメントは、才能を絶賛する言葉と共にアメリカ・フロリダ州の「ニック・ボロテリー・テニスアカデミー」に入学を進められた。
 父ユーリはこの言葉に喜びと勇気を得て、アカデミー入学の夢を妻に話し説得した。
 100万円の学費を貯めるために、父は血眼になって働いた。
 ・・・不足分の学費は自分の両親や妻の両親に借りて、・・・妻をロシアに一人残し、シャラポア7歳の時に父と2人だけで渡米した。しかし、残念なことにアカデミー入学年齢は8歳以上であり、その上学費は200万円以上が必要だったため入学は叶わなかった。
 父は愕然とし途方に暮れ、ロシアへ帰国することを真剣に考えたが・・・・、何としてもの思いにとどまり、賃金の高い職場を朝昼晩と変え一心不乱に2年もの間働き続けた。その間には、シャラポアのために個人コーチを見つけテニスの練習を続けさせた。
 懸命な働きがあって学費も貯まり、シャラポアが9歳のとき再びアカデミーの入学テストを受けることが出来た。・・・何とその評価はアカデミーを驚嘆させる類いまれな才能として認められ、学費も無料の「特別奨学生」としての入学を果たした!
 ・・・その後、シャラポはアWTAツアーに14歳でプロデビューした!
世界一を誓ってから、イギリスのウィンブルドン選手権で17歳2ヶ月にして初優勝を果たした。
 その時のシャラポアの映像記録が残されていた。・・・・・優勝の喜びに天を仰ぎ座り込んだ!・・・・・、思い出したかのように瞬間的に、観客席の父ユーリを必死に探していた。・・・父を見つけすぐさま駆け寄り、シャラポアは感謝を込め・・・、父娘の二人は号泣し、強く抱き合って喜びを表わす感動的なシーンを見せた。

 角田美代子とマリア・シャラポアとの違いを一言で言えば、前者においては幼少期からの父母の養育や劣悪な家庭環境が災いし、後者においてはチェルノブイリ原発事故を発端とした貧困がきっかけとなり、・・・娘のため我武者羅に働く父の姿に「愛と感謝」を写し出している。
 非情、非道、愛情、感謝といったような感情の真理はどのようにして生まれてくるのか?
 「眠れる東洋思想」の中から私なりに考察してみた。
 「性善説」という言葉があるが、・・・人間の本性は基本的には「善」であるとする孟子に由来する、儒教の中心概念を意味している。
 それと相まった「新説」として、「前世説」の話がある。
 中国のある一定地域に「生まれ変わりの村」が存在するという。その一定の村に、生まれ変わった人が多く住んでいるのだが、・・・その一例として、生まれ変わった人から前世の家族の話しを聞いて探索してみると、探し当てた前世家族の話しを符合させると、すべてが事実であることが判明している。
更に、生まれ変わる平均年数は約3年というデータが出ているようだ。
 要約すれば、何度も生まれ変わりながら一般で言われる「魂」に、知識や経験が蓄積され、「魂は永遠」であることを証明しているように思われる。
 何度も生まれ変わりながら、知識や経験、あらゆる精神感情が熟成され「潜在意識に内在」されていくようだ。
 母親の胎内環境、幼少期の教育や家庭環境、人生での経験、体験、知識など複合されたものが引き金になって、・・・良くも悪くもその時の環境や条件に適合した感情が、潜在意識から引き出され外側に行動となって表われてくる。
 昭和30年代~40年代頃までは、夫は仕事で妻は家庭で子は学校で艱難辛苦を乗り越え人間性を身に付けて行った。・・・次の4つを忘れてはならない。
❶ 基本として「夫婦円満」が第一条件であると肝に銘じなければならない!
❷ 医食同源の意味から、添加物などの「有害物質」が混入されていない自然食材を極力摂取すること!
❸ いずれ、誰にも 「リーダーの心得と己を律する心」が必要となる時期が来る!
❹ 妻が働いて悪くはないが、子供たちが次から次へと「人並み」に育たなければならない!

 徳川家康 が言っている。
『大将というものは 敬われているようで その家来に絶えず落ち度を探られているものだ 恐れられているようで侮(あなど)られ 親しまれているようで疎(うと)んじられ 好かれているようで憎まれているものじゃ 大将というものは絶えず勉強せねばならぬし 礼儀もわきまえねばならぬ よい家来を持とうと思うなら わが食減らしても 家来にひもじい思いをさせてはならぬ 自分一人では何もできぬ これが三十二年間つくづく思い知らされた家康が経験ぞ 家来というものは 禄でつないでならず 機嫌をとってはならず 遠ざけてはならず 近づけてはならず 怒らせてはならず 油断させてはならぬものだ 家来には惚れさせねばならぬ!!』

『人は艱難辛苦を超え進化して行く』
 ゆえに、あらゆる精神的な感情や経験・体験・知識・・・等は、生まれたときから潜在意識にすでに備わっているとして踏まえたなら、教育や環境次第で輝きある人生を歩めるということだ!!

 *推薦参考書
『神(サムシンググレート)と見えない世界』祥伝社新書・共著/著者=矢作直樹:東京大学大学院医学系研究科教授・医学部附属病院救急部・集中治療部部長・医学博士・医師/村上和雄:筑波大学名誉教授・農学博士

 

テーマ : 社長ブログ
ジャンル : ビジネス

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プロフィール

鳥澤 悟道

Author:鳥澤 悟道
株式会社リヴァイヴ
代表取締役 鳥澤 哲男

●東洋カイロプラクティック
 専門学院 学院長
●東洋カイロプラクティック
 直営療術センター 総院長
●東洋カイロプラクティック師
 協会 会長
●予防医学推進 悟道会 会長
●健康アナリスト
●上海中医薬大学気功研究所
 修了
●臨床催眠療法師

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